東京五輪・パラリンピックの開会式で音楽を担当することになっていたミュージシャン、小山田圭吾さんが、過去に雑誌のインタビューで、学生時代のいじめを告白していた問題は波紋を広げて、とうとう開幕4日前に小山田さんが辞任する結末をむかえました。
ただでさえ、今回のオリンピックは、満を持してというには程遠い状況での開催なのに、直前に、また問題が…て感じですよね。
問題となったのは、音楽雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』(1994年1月号)と『クイック・ジャパン』(1995年vol.3)です。
これらのインタビュー記事の中で、小山田さんは、学生時代に「いじめ加害者」だったことを告白しています。
障害者の同級生を跳び箱の中に入れたり、マットの上からジャンピング・ニーパットなどをしたり、排泄物を食べさせたりしていたなどと自慢げに語っています。
結構、衝撃的ですね。
程度にもよるでしょうが、いじめってこんなに凄惨なモノなのかと、自分の無知を痛感します。
ネット上では、小山田さんのいじめ告白は、たびたび問題視されてきたようですが、2021年7月14日に東京五輪・パラリンピックの音楽担当が発表されたことで、ふたたび蒸し返され、その後、批判が相次いでいました。
確かに、これは放置はできないですね。
オリンピックという世界的イベントですし、問題となっているのは、かなり悪質ないじめですからね。
小山田さんは2021年7月16日、自身のツイッターで謝罪文を掲載しました。
記事の内容について事実と異なる内容も記載されているとしながらも、「私の発言や行為によって傷付けてしまったクラスメイトやその親御さんには心から申し訳ない」としています。
その後、小山田さんは辞任を発表しました。
オリンピックの方は、とりあえず、辞任ということになりましたが、いじめについては、どう評価すべきなのでしょうか?
【目次】
1.いじめは「犯罪」にあたる場合がある
2.「人間としてやっていいことではない」
3.雑感
1.いじめは「犯罪」にあたる場合がある
小山田さんが告白している内容は法的にどんな問題があるのでしょうか?
まず、「いじめ」といえども、刑法によって処罰される犯罪にあたる場合があります。
相手を殴ったり、蹴ったりという「有形力」を行使した場合、暴行罪にあたります。
相手をケガさせて、その結果、死亡させた場合、傷害罪、傷害致死罪となることもあります。
跳び箱などに閉じ込める行為は、逮捕・監禁罪にもなります。
異物を食べさせるような場合、無理やりする必要のないことをさせた強要罪、体調に異常があれば傷害罪、暴言の内容によっては名誉毀損・侮辱罪なども考えられます。
これらは刑法という法律に要件が挙げられている行為です。
いじめという、大きな括りをされることがありますが、個別の行為それ自体が刑法に触れることがあるんです。
刑法の問題に至らない「いじめ」はどうなのか?
そこまでに至らなくても、被害者が嫌だと思っていれば、民法上の不法行為にあたります。
犯罪にはなりませんが、損害賠償の対象になる可能性があります。
子どもがいじめに苦しんで自殺を図る事件が何度も起きて、その都度、大きな社会問題になっています。
そこで、2013年に「いじめ防止対策推進法」ができて、いじめが定義されるようになりました。
この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいいます。
ここでのいじめの範囲は、被害者の感じ方を基準とするので、比較的広いですが、学校など、教育の現場では、子どものいじめ被害に細やかに留意すべきであることを示しています。
まず、漠然といじめを捉えるのではなく、いじめとは何かを、みんなが意識するということが大事ですよね。
その上で、いじめかどうかの判断は、被害者を基準とするというところが大事です。
周囲の人間でも、ましてや加害者なんかではありません。
そして、障害のある子に対する場合とそうでない場合で、この法的問題は異なりません。
障害のある子は「心身の苦痛」を感じないのではないか、という疑問を持つ方がいるかと思いますが、それはただ都合の良い解釈にすぎません。
聞き取る側の偏見とか、聞き取るための能力が不足しているだけです。
2.「社会意識がどうあっても、人間としてやっていいことではない」
小山田さんは1969年生まれです。現代の社会意識と違いを指摘する声もあります。
いじめをおこなっていたのが中・高のころとすると、1980年代前半だと思われます。
当時の障害者に対する法制度や、社会意識がどうあっても、人間としてやっていいこととは思えません。
日本でも1980年代初頭から障害者問題に取り組んでいきました。
それまで障害者の人権は顧みられてきませんでしたが、やっと平等な人権の主体として目を向けられてきたころです。
その後、弱者に対する虐待防止法が徐々に作られて、権利保障が社会に強く意識されていきました。
2000年に児童虐待防止法、2001年にDV防止法、2005年高齢者虐待防止法、2011年に障害者虐待防止法が制定されました。
それまでも子どもをはじめ、彼らが虐待されていいと社会が認めていたわけではありませんが、虐待を虐待と意識することなく人権侵害が見過ごされていた時代だったといえます。
このように見てくると、障害者を虐待してはいけないことを法をもって示さなければいけなかったのが、ほんの10年前ということで、障害者に対するいじめが許されないという社会意識は、相当遅れていたといえます。
小山田さんのインタビュー記事は1994年・1995年のことです。
たしかに小山田氏が、いじめをおこなっていた時期、そのことを臆面もなく公に語っていた時期は、社会が今ほど障害者の人権を意識していなかった時代であったとはいえます。
人間として許せないことですが、障害のある子にいじめをおこなった過去のある方は少なくなかったのではないかと思います。
また、当時は、子ども全般が、しつけの名のもとに親や教員から暴力を受けることもまだまだあり、それが虐待といわれなかった時代ですから、小山田氏の当時の行動が自らの非人間性によるばかりではなく、自らもその被害の客体であった時代でもあるわけです。
ただし、いじめた当時からは10年以上経過して、30歳近くなった1995年にそれを平然と語るというのは、本人の意識の問題もありますが、そのような発言を許す社会も、大分成長の遅れがあったと感じますね。
3.雑感
障害のある方は「いじめても嫌がらない、わからない(と思われている)、訴えない、訴えられても誰も取り合わない」と、認識されている部分があるような気がします。
それが安易な加害を許すことにもなっているのではないのでしょうか。
もちろん、これは障害のある方に限らず、性格上、声を上げることが苦手な人もいます。
このような性格の人が、痛みや不快感、嫌悪感を感じていないと思ったら大間違いです。
でも、先ほども述べましたが、嫌がらない、訴えないは、聞く側が聞く力を持っていないにすぎません。
誰でも同じように、嫌なことは嫌と感じています。
そして、その体験は、自己に対する価値観を低下させます。「そういった嫌なことをされてもしかたない人間であること、それに耐えなければいけない人間であること」を心と体に染み込ませていってしまいます。
この体験は、自己の人権が侵されることが起こっても「NO」をいう力を失わせます。
自己肯定感だけを貶められたまま生きていくことになります。
より大きな被害を与えているといえるのです。
